2021年には新語・流行語大賞にもノミネートされた言葉、「推し活」は今やすっかり市民権を得ている。
アイドルやキャラクターなどの「推し」、いわゆるご贔屓を愛でたり応援したりする「推しを様々な形で応援する活動」のこと。「推し活」は「オタ活(ヲタ活)」の一環でもあり、推し活をしている人は何かしらのオタクであることを自他ともに認めています。
「推し活」事情を学ぶ①推し活って何するの?編 | グッズ関連|ノベルティ・オリジナルグッズの紹介やトレンド情報を発信中|株式会社トランス(東京・大阪)
現在では「推し」の対象は二次元キャラクター、クリエイター、果ては無機物にまで広がっているが、アイドルに用いることが最も「王道」な使い方だろう。翻ってアイドルオタクである僕は、年間100以上の現場に訪れ、チェキを撮り、CDを買い、Spotifyで楽曲を聞き、SNSをフォローし…と、日々「推し活」の真っ最中である。しかし、僕はこの「推し活」という言葉を聞くたびにむず痒いような違和感を感じる。その理由を考えてみた。
「推し活」をめぐる現状
「推し活」賛美
現時点では概ね「推し活」という言葉はポジティブな文脈で用いられる。例えばNHKの朝番組『あさイチ』では「#教えて推しライフ」という名物コーナーができている。番組Pはこう語る。
『推し』には絶対鉱脈があると思っていましたので、『あさイチ』のメイン視聴者である30代~50代女性に向けて、推しのいる生活を取り上げる企画をやるのは面白いだろうと思いました。好きなものを追求している人の前向きなパワーや人生の楽しみ方を視聴者の方々に提供できるのではないかと思ったんです。
つい先日も『クローズアップ現代』と『あさイチ』がコラボして、企業による「推し活休暇」の導入や、名古屋の和菓子店とTEAM SHACHIの関係や、高齢者によるJリーグ推し等が紹介された。このように、「推し活」による良い効果を取り上げる番組や雑誌の特集などはしばしば見られるようになった。
「推し活」をすることで生活が潤って、良い事尽くめ!という言説はネット上でも多く見られるようになっている。アルファツイッタラーのこのようなツイートも定期的にバズっている。
俺は推し活という行為そのものを超推してるんだけど、理由は推しができた知人達が皆めちゃ楽しそうで、推し活を通して友達も増えてて、なんか若返ってて、推しを推す為に仕事にも燃えててって感じで、推しの存在がその人の人生を良い方向に導いて幸せにする奇跡を何度も見てきたからです。推し活は尊い
— Testosterone (@badassceo) 2023年1月20日
過剰な「推し活」への警鐘
そうやって「推し活」が賛美される反面、最近は過剰な「推し活」への警鐘が見られるようにもなった。特に「メン地下」ことメンズ地下アイドルが未成年のファンにわいせつ行為を行って逮捕されたことを契機に厳しい目が注がれているようだ。警視庁が過度な「推し活」を注意喚起をするような事態となっているのには驚かされた*1。
皆さん「推し活」って知っていますか?
— 警視庁生活安全部 (@MPD_yokushi) 2023年1月30日
中高生が「メンズ地下アイドル」にハマり、家のお金の持ち出しやパパ活・援助交際などによりお金を稼ぎ、「推し」に貢いでしまうという相談が急増しています。過剰な「推し活」は、生活の乱れに繋がります。#メン地下 #メンズ地下アイドル #推し活 pic.twitter.com/AFFv1qBxUl
また、そこまで酷い事態にはならずとも「推し活」に疲れた、と語る人が多いように、「推し活」が賛美される一方で、その弊害も少しずつ表出してきたように感じる。
「推し活」が孕む社会的問題
「推し活」がただ素晴らしいだけの活動ではないとして、一体どういう問題をはらんでいるのだろうか。そこには「推し活」に関わる両者…「推し」側と「オタク」側の両方からの観点があると思う。
「推し」側の問題 ~他者の人生を消費することの軽視~
「推し活」という行為の持つ最大の特徴は「推し」の存在である。つまり、推す対象となる人物が存在しており、その「人物」自体をコンテンツとして消費することになる。その行為が孕む危険性を的確に言い表しているのが戸田真琴さんだ。
現代に溢れる「推し」という言葉には、こういった「恋人関係になることを目的としない他者への好意」のことをカジュアルに表現し、日常のなかのよくある風景として紛れ込ませる機能があります。そこには、「誰かを好きだと思う気持ちが日々の幸福度を上げてくれる」といったテーマパーク的なエンタメ性がありながら、「推す」対象をある種キャラクター化して一方的に観察して楽しむような無邪気な暴力性が窺えます。
的確な洞察であり、僕自身にも刺さる言葉である。特にこの一節はグサリとくるものがあった。自分はアイドルが「苦痛を乗り越える姿」をエンタメとして消費してしまうことがこれまで一度もなかっただろうか?
アイドルという仕事を続けるためには心身に大きな負担がかかる業種であることは、確かなことであるにもかかわらず、その苦痛が等身大で伝わる機会はそれほど多くありません。当人たちのリアルな痛みは無視されやすく、たまに明るみに出る場合も「苦痛を乗り越える姿」を描いたドキュメンタリーとして見られたり、病気からの回復を祈るハッシュタグがファン間で出回ったりと、その苦痛自体がコンテンツ化されるパターンも繰り返されています。
心身の苦痛は職業を超えた個人的な領域にも重なるものであるにもかかわらず、そこまでもがエンターテイメントにされてしまうことの無邪気な暴力性には、アイドルのドキュメンタリーを売りにしてきた大人たちや、ファン同士が横のつながりをもって盛り上がりやすい現代のSNS社会も加担しているのだと思います。
このように、「推し活」は、その裏にある「推し」の生活を…もっと言えば人権を軽視する危険性を孕んでいる。
「オタク」側の問題 ~自身の人生を毀損することの正当化~
「推し活」の主体はオタク達だが、そこにも問題が隠されている。例えば、Twitterではしばしば「推し活」に身を投じて結婚できない、貯金できない等の…コミカルな自虐ツイートが見られる。そしてこういったツイートには、推しのためならしょうがないよね、と同調・賛美するようなリプライや引用リツイートがぶら下がる。
「推し活」の恐ろしいところは「○○のため」という大義名分が成立するところにある。「○○のため」なら自身の人生を毀損することも問題ない、という言説は非常に危険であり、この意識が暴走するとメン地下に大金を貢ぐ女の子達のような被害者が生まれることになる。
「推し活」にかかるお金は必要経費だという耳心地が良い言葉はただの”まやかし”だ。何に使おうが、それは一般的な趣味にかかるお金と同質の「自身の快楽のため」の消費であることは忘れてはいけない。
誰かでは埋められない心の穴を埋めてくれる「推し」の存在と、それに関する出費は、今の時代「人生の必要経費」といってもおかしくはないでしょう。
たとえ、1回10万円出費したとしても…「推し」に使うお金は、人生の「必要経費」です!(横川 楓) | マネー現代 | 講談社
自分の人生に責任を取ってくれるのは自分だけである。「推し」を自傷行為の言い訳にするべきではない。
僕自身の感じる「推し活」への違和感
ここまで「推し活」に関わる一般的な問題について考えてみたが、僕自身が感じる違和感についても考えてみた。
僕がオタクをする目的
「推し活」というのは文字通り、誰かを「推す活動」であり、対象となる人物・グループを応援すること自体がその目的である。僕の行動は客観的にみると「推し活」そのものなのだが、一方で僕にはアイドルを「推している」という自覚があまりない*2。
僕がオタクをやっている行動原理は「アイドルを応援したいから」ではなく、「自分が楽しいから」である。つまらなさそうなライブなら推しの生誕でも干すし、チェキを撮るのは単にアイドルとコミュニケーションをとるのが楽しいからだし、使わない高額なグッズを応援のために購入するという事もほとんどない*3。
僕にとってはアイドルのライブや特典会を楽しむことが目的なので、推しているグループが売れることでライブのチケットが取れなくなったり、取れたとしても悪い席になってしまったり、特典会のレギュレーションが険しくなったりすることは全く嬉しくないし、そうなってしまうくらいなら売れてほしくないとさえ思っている。こういうマインドでするオタク活動は「推し活」というには相応しくないような気がする。
「オタク」のイデア
「推し活」という言葉にはオタクとして「正しい」行動である、という前提があるように感じる。「推し活」の世界では、推しが売れることや結婚等に対してネガティブな感情を持つことや、推しの新曲を批判することなんかは認められていない気がする。
しかしながら、世の中の“ただしいオタク”たちは、「推しメンが結婚したら、悲しむのではなく『おめでとう』と祝福するべきだ。祝福できないオタクは本当のオタクではない」と主張します。
古代ギリシャの哲学者プラトンは「イデア界」という理想の世界があり、我々が知覚する現実世界はその似像に過ぎないという「イデア論」を唱えた。「推し活」において登場するオタクは推しを応援す理想の存在、即ち「オタクのイデア」と近しい存在ではないだろうか。「オタクのイデア」からは程遠いオタク活動を送る僕は、それに違和感を感じる。
プラトン哲学におけるイデアとは「知覚を超越した場所に存在し、直接には知覚できずに想起によってのみ認識し得る、抽象化された純粋な理念のこと。そして、対象を対象たらしめている根拠であり本質、真の存在」という意味合いとなってきます。
総括
要は、僕はオタク一人一人の血の通った営みを、「推し活」というキラキラしたカテゴリーに押し込められてしまうのが嫌なのだ。僕がやっているのは「誰かを応援する素晴らしい活動」ではなく、ただの「アイドルと共に生きる生活」だ。
プラトンの弟子でありつつ、その思想に異を唱えたアリストテレスは「イデア」を否定し、現実世界の多様性を説いた。
アリストテレスは地上の人間、多様性を擁護する立場からプラトンを批判し、唯一絶対の永遠のイデアを否定する。可感界から目をそむけ、天界を見上げよと説いたプラトンに対し、アリストテレスは可感界に向き合い、多様性や複雑さに目を向け、現実を間近で、至近距離から観察する。
アリストテレスとプラトンは一体何が違ったのか | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース
僕の「アイドルと共に生きる生活」は多様な側面を持つ。最高のライブを見て涙を流す日もあるし、クソ席で全然楽しめない日もある。特典会で楽しく話す日もあれば、長すぎる特典会列に並ぶのがダルくて帰る日もある。「やっぱり○○だなー!」と愛を叫ぶ日もあれば、「新曲クソだよな!」と酒を飲みながら管を巻く日もある。
でも、僕は、「推し活」という言葉から溢れ出す、そんな生活がどうしようもなく幸せなのだ。
タイトルは「正せよ状況/situasion」より。