第164回芥川賞を受賞した宇佐見りんさんの著作『推し、燃ゆ』は印象的な一文で始まる。
推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。
この冒頭の文章は帯にも記載され、キャッチフレーズ的に機能する。本書を読むまで僕は、アイドルがファンを殴った事件を中心に描かれるアイドルとオタクそれぞれの物語、みたいな話かなぁ…と想像していた。しかし物語は僕が想像していたものとは少し違った。この本を通して「推し」とは何か、考えてみた。
※以下、本書のネタバレを含みます。
あらすじ
まずは簡単にあらすじを紹介しよう*1。
本書の主人公は男女アイドルグループまざま座のメンバー・上野真幸のオタクである、あかりだ。物語は真幸がファンを殴って炎上するところから始まる。
炎上の結果、真幸が人気投票で1位から最下位に転落することで、あかりはさらに「推し」中心の生活に傾倒する。あかりのそんな生活に加え、祖母が死亡するなどの家庭内の事情も重なり、徐々にあかりの生活の歯車は狂っていく。その結果、あかりは高校を留年・中退し、家族から距離を置いて一人暮らしを始めることとなるが、そんな中グループの解散を知る。。。
あかりの「推し方」
僕もブログでたびたび言及していることだが、アイドルもオタクも千差万別である。前提として、真幸がどのレベルのアイドルで、あかりがどういう推し方をしているオタクなのかを推察してみる。
まず、アイドルグループ、まざま座に所属する真幸だが、幼い頃から舞台に出演したりしておりキャリアは長そうだ。また、事件後の炎上具合や、メディア露出度などの描写から、結構売れているグループだという印象だ。男女グループということもあり、AAAくらいのイメージだろうか?*2
一方、あかりの「推し方」については明確に言及される。
あたしのスタンスは作品も人も丸ごと解釈し続けることだった。推しの見る世界を見たかった。
推しが目の前で動いている状況は舞台が終わるたびにうしなわれるけど、推しから発されたもの、呼吸も、視線も、あますことなく受け取りたい。座席でひとり胸いっぱいになった感覚を残しておきたい、覚えておきたい、その手掛かりとして写真や映像やグッズを買いたい。
あかりは、真幸という人間の解釈をしたいオタクであり、そのためにすべての情報を集める。「推し」が出るありとあらゆるメディアをチェックし、お金の許す限りグッズを買い占め、「推し」につぎ込むためにバイトをする。僕のように、メディアチェックもグッズ購入も気が向いた時にしかしないし、いろんなアイドルに目移りしているKSDDとは大違いの単推しガチ勢である。
アイドルとオタクの関係性
意外にも、僕が冒頭に書いた「アイドルがファンを殴った事件」について、本書内で多くが語られることはない。そして、全てはあかりから見た主観で描かれ、なぜ真幸がファンを殴ったのかが明らかになることはなく、インターネット上の憶測だけが断片的に描写されるだけだ。
また、直接的に真幸とあかりが触れ合うシーンも描かれない。真幸のSNSにあかりが書き込むシーンがある程度だ。そして、あかり自身も認知厨ではないので、その状況に満足しているようだ。
お互いがお互いを思う関係性を推しと結びたいわけじゃない。たぶん今のあたしを見てもらおうとか受け入れてもらおうとかそういう風に思ってないからなんだろう。
この感覚はよく理解できる。アイドルを推していると「付き合えると思ってるの?笑」とか聞かれることがよくあるが、僕は推しのアイドルと付き合いたいと思うことはほぼ無い。推しの事は、アイドルとして好きなだけで、ライブをやっている姿を見られればそれ以上に何かを望んだりしていないのだ*3。実際に、あかりは真幸の結婚匂わせに対しても、ダメージを受ける様子はない。
アイドル失格の烙印、ファン激怒、って書かれてるけど、あたしは別に怒ってないのになあと思う。
「推し」との関係性は簡単に説明できるようなものではないし、理解されるものではないが、あかり目線の本書の描写は見事にアイドルとオタクとの間にある特殊な関係性を表現している。
「推す」ということ
「推し」との関係性という点では僕自身も共感できる点が多かったが、その打ち込みっぷりはKSDDの僕から見ると不健全なものだった。彼女にとって「推し」がすべての中心であり、全てのエネルギーを推しに注ぎ込む。
推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな。
そして、あかりがエネルギーを注ぎ込んだ分、その喪失、即ち「まざま座」の解散、真幸の芸能界引退があかりに与える衝撃は計り知れない。「背骨」を奪われた彼女は絶望する。
あたしから背骨を、奪わないでくれ。推しがいなくなったらあたしは本当に生きていけなくなる。あたしはあたしをあたしだと認められなくなる。
(中略)
推しを推さないあたしはあたしじゃなかった。推しのいない人生は余生だった。
僕は何度も好きなアイドルの卒業や解散を経験してきたが、彼女のようにそもそもアイドルを「背骨」として生きていない。「悲しい」とか「寂しい」とかをはるかに超越する、自身の存在意義が奪われる感覚とはどういったものだろうか。
最後に
近年「推し」という言葉は一般化した。アイドル以外にも俳優やクリエイターなども含め、様々な対象に対して「推し」という言葉が使われるようになった。そして、それは一般的に良い意味でつかわれることが多い。推しがいるから人生が豊かになった、推しのおかげで明日も頑張れる、推しのSNSを見て元気が出た…等々。先日も「推し」の存在をを賛美するツイートがバズっていた。
「死にたい」を連呼していた10代の患者さん、最近「推しが尊い」と言い出して希死念慮が吹き飛んだ。このハードで理不尽な世界の中で"明日も生きたい"と感じさせてくれる存在なら、それはもはや信仰の域であって、わりと本質を突いている言葉なのかもしれない。ありがとう、彼女の尊い不完全な神様。
— つかふる姐さん (@wornout___) 2021年4月26日
僕はこのツイートを見たとき、というか、本ツイートにぶら下がる「推す」行為を賛美するリプライや引用リツイートに対してモヤモヤした気持ちを抱いた。「推す」ことは常にポジティブな行為なのだろうか?
本書の中で、あかりは「推し」の活動によって生かされ、その炎上に動揺し、その喪失に絶望する。「推す」ことは確かに素晴らしいかもしれないが、その「推し方」によっては何かが棄損される。それは良いことでも悪いことでもない。ただの事実だ。
「推し」と「オタク」という新たな関係性は、「家族」や「恋人」などの他の関係性と同様に、誰かの心をかき乱し、人生に大きな影響を与えるものだ。本書は真正面からその新たな関係性に踏み込み、そこに生まれる感情の機微を描き出したという点でエポック・メイキングではないだろうか。
携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたり分の優しさがあると思う。相手と話して距離が近づくこともない、あたしが何かをすることで関係性が壊れることもない、一定の隔たりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくれるということがあるように思う。
「推し」に関する過去エントリはこちら。
idol-consideration.hatenablog.com
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